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zoom RSS 伝説の歌姫・安藤文子 その2

<<   作成日時 : 2014/04/05 06:20   >>

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前回に引き続き伝説の歌姫・安藤文子さんについて新しくわかったことを述べましょう。

大正末期、浅草オペラのスターであり、根岸歌劇団(金龍館)の歌姫・安藤文子さんは1923年春以降消息不明かと思われていましたが、当時の芸能情報が豊富に掲載されていた「都新聞」(現・東京新聞)によるとその後も主役を務めるなど精力的に活動を続けており、9月1日に発生した関東大震災後も歌劇団の団員ともども無事が確認されています。

当時根岸歌劇団は震災の甚大な被害で東京での公演ができなくなり、同新聞では地方巡業に移行する旨が書かれていました。その一行の中に安藤文子さんの名前がしっかり掲載されています。
9月25日には大阪千日前芦辺劇場で公演し、10月30日には大阪、京都を巡演し11月に帰京、と書かれています。その後は東北地方にも巡業したとの記録もありました。

さらに翌年の1924年2月16日付にも清水金太郎・田谷力三とともに安藤さんの名前があり、北海道の函館市にある「綿輝館」、小樽市の「小樽錦座」と巡り、2月22日から28日にかけても旭川市の「旭川銀座」、札幌市の「札幌銀座」でそれぞれ講演を行ったと記録されています。

ところが北海道の巡業が終わったあと、公演情報が新聞に載ることはなく、根岸歌劇団は解散に追い込まれます。

「根岸歌劇団解体」という記事で、田谷力三、天野喜久代、木村時子一派と、清水金太郎・静子夫妻、大津賀八郎、柳田貞一の一派が井上起久子・堀田金星を迎え入れた状態で、それぞれ新劇団を旗揚げするという内容でした。
掲載されたのが「都新聞」の1924(大正13)年4月1日付なので、解散を表明したのは3月31日と思われます。
清水氏、田谷氏などそうそうたるメンバーがその後の進路を模索している中で、看板スターであった安藤文子さんの名前は何故かありませんでした。

その後、4月6日には田谷力三一派と清水夫妻一派がともに喜歌劇団(のちに経営者の名に因み「森歌劇団」と命名)を立ち上げており、東京のオペラ館で上演することが決まります。メンバーは上記の俳優陣に加え、藤村悟朗、高井ルビー、松島栄美子ほか十数名と書かれていました。
しかしここでも安藤文子さんの名前がありません。独立したのであればその旨が掲載されるはずですし、ましてやかつてのトップスターがその他大勢に一括りにされるとも考えられません。

おそらく安藤さんは根岸歌劇団の解散時(もしくはその直前)の1924年3月に引退されたのでしょう。
5月以降の記事は未見ですが、2月以降ぱったり名前が出てこないところを見るとそれより先の記事には出てくる可能性は非常に薄いと思われます。それでも元夫の藤原義江氏の記事で触れられる可能性があるので、「都新聞」をさらに読み進めてみる必要があるかもしれません。

「ソプラノリリコ」と称され、繊細な歌声で観客を魅了した安藤文子さん。浅草オペラでの栄華、関東大震災、藤原氏との離婚、根岸歌劇団の解散と波乱万丈を経て彼女は伝説の彼方へ消え去っていきました。

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