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zoom RSS 近況と新情報を少々。(河合澄子・安藤文子)

<<   作成日時 : 2015/10/18 21:54   >>

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上の画像は河合澄子さん。1930年代の写真で、このような衣装を着てダンス披露をしていたようです。

約半年ぶりのブログ更新です。
正直、モチベーションの低下や生活面であまり余裕が持てず調査を怠っていたこともあり、なかなか更新できない日々が続いていました。

まずは河合澄子さんの情報について軽くまとめを。

1938(昭和13)年当時の新聞を見る限りでは
現役引退後は実家のあった東京都墨田区東駒形(実家のあった1丁目周辺)に居住していたこと。
そこで舞踊稽古場(ダンス教室?)を開いて後進の指導にあたっていたこと。
そしてプライベートでは結婚している様子は窺えず、父親は既に故人であったことが判明しています。

そして新たにわかったことは、
彼女は現役時代に結成した「河合澄子舞踊団」を継続しており、1939(昭和14)年8月14日より
福島を振り出しに地方巡業に出ていたことが「都新聞」で記事になっていました。
彼女に関してはここから先の新聞記事に出てくる可能性があるので、引き続き国会図書館で読み進めようかと思います(今のところは1941年末まで目を通しています。)

また、以前の記事で彼女は「立教女学院卒」と書きましたが、
立教女学院の資料室にメールで問い合わせたところ、実際は卒業していなかった(卒業者名簿に名前が無かった)ことがわかりました。
当時のプロフィール資料を見返してみたところ、「歌劇と歌劇俳優」(1919年刊)には「立教女学校出身」(p53)「日本歌劇俳優写真名鑑」(1920年刊)には「立教女学校修業(注:学問を修めた)」(p38)と書かれており、「卒業」とは一言も書かれていませんでした。
同学院の資料室の方のお話では、当時は入学したものの様々な事情で卒業までたどりつくことができず、途中で学校を去る生徒が多かったのと、関東大震災で建物が全焼し、当時の資料が消滅してしまったため学校を去った方々の記録が残っていないのだそうです。

Twitterで私自身も呟いていることですが、現在に至り河合澄子さんのゆかりの地にあるお寺を何軒か巡ってみたり、墨田区の資料館や博物館をたずねたりしているところですが、これといった情報が掴めていないのが実情です。

そして、以前より追っていた浅草オペラのもう一人のヒロイン、安藤文子さんについてです。
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だいぶ以前にある研究家の方のツイートで「長らく消息不明だった安藤文子は弁護士と再婚している」という
一文を見つけました。
その情報ソースはどこだろうと思い探してみたところ、ある資料館に所蔵していた戦前の音楽雑誌「音楽之友」1942(昭和17)年7月号の70ページにその記事が載っておりました。(私自身のTwitterでも少し触れています。)
当時、キングレコードの音楽監督であり、大正期の浅草オペラので活躍された指揮者の篠原正雄氏により書かれた「歌劇の民衆化時代を知る」というタイトルの記事でした。

「この主役の椿姫は安藤文子さんで、今弁護士夫人で内助を専らの由ですが此の方は大変太っておいでなので肺病で死ぬ様子はありませんので大分苦心してゐられた様です」

以前の記事にも触れたとおり、彼女は1924年3月に突如行方をくらまし(当時のオペラ専門誌でも消息は掴めなかったようです。)ましたが、実際はごく限られた知人の方に近況が伝わっていたようです。長い間姿を隠していた理由は杳としてわかりませんが、恐らく当時の女性の倫理観の問題(簡単に離婚・再婚を表沙汰にできない)と、以前の夫であり、有名人であった藤原義江氏に気を遣っていたのではないかと考えられます。

再婚した弁護士はどこの何者なのかは全くわかりません。文子さんは当然姓も変わっているはずなのでその後を追跡するのは至難の業かと思われます。

今のところ得られた情報は以上です。
私自身、何の肩書もない素人なので調べる方法は限られてしまいますが、モチベーションの続く限り彼女たちをはじめとした様々な人物調査は続けていきたいと思います。

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